金光寺は東庄内町の階下にあり、曹洞宗、山号無量山、ご本尊様は阿弥陀如来です。
宝暦二年(1752)に書かれた「勢州鈴鹿郡原之庄階下無量林金光寺興廃旧記」によれば、応治二年(1241)、天台僧円海による開基とされます。貞治元年(1362)には管領斯波氏頼が金光寺で僧侶となり大寺とされました。
一四七〇年には、応仁の乱を避け後花園院の皇女も金光寺に入寺したと伝えられます。その後、五七才の生涯を閉じられ、「姫塚」に葬られました。
また、中世の干ばつの時、鈴鹿川流域の村人は野登山に登り雨乞いをいたしました。途中この寺を休憩所とし、やがて雨乞いの踊りを行う例ともなったといわれます。
天正十一年(1583)峯城陥落の際、金光寺も消失し衰微しましたが、慶長三年(1598)、曹洞宗の曲川によって再興され、同宗に転じたとのことです。 式内天一鍬田神社(八島明神)などは金光寺が別当として管理にあたっていたと伝えられます。
その後、嘉永元年(1848)当時住持の失火に依り焼失いたしました。しかし、その三年後、住民、信者等の努力により再建されました。現在の堂が当時のものであります。
鎌倉期の頃、天台宗慈円の弟子円海がこられた時に建てられました。神代に神々が、この地でまりの遊びをなさった時、村人があゆをおくられたとか。これが、伊勢神宮へのあゆの奉納の始まりという説があります。
東名阪道路東庄内料金所の南方近くの畑の申に、寂しく残されている土くれがある。 丘状をなす高さ1メートル余りの古墳は、その盛り土も崩れかけて伸びるにまかせた雑草の中にひっそりと眠っているようにみえる。 そこには、第103代後花園天皇の第一皇女安禅寺殿が葬られている。これを姫塚とよんでいます。
金光寺に残る記録は次のように物語っています。
今を去る500年前応仁の乱が始まると、後花園天皇の第一皇女は、京都の山科で仏門に入られました。うら続く戦乱と飢饉に、当時の人々は苦しい生活を送っていました。その悩みを少しでも和らげようと、天皇は仏教に心を寄せられました。皇女もおそらく父天皇に習われたものでありましょう。
しかし、それも意にまかせず、文明2年(1470)乱を避けて当地の金光寺に身をお寄せになられました。その年も押し迫る頃、父天皇の病重く、皇女は俄かに都にお帰りになられました。 せっかくの看病のかいもなく上皇は他界され姫の身辺も急に寂しくなった。御後のことを、済まされた姫君は再び金光寺においでになられました。
戦のない平和な里に心を澄まされたい、いらずな願いからであったろうが、30歳にならぬうら若き身空で、異郷に過ごすあけくれは、まさしく労わしい限りではなかったでしょう。
この寺の「かこら山」下を流れる川を「かこら川」といつしか言うようになちたのも「都をかこら(都を慕っていろいろと思い嘆く)給ふ」という姫の心境を偲んでのことであると伝えられます。
何事もなければ何一つ不自由なき生活を送られたであろう皇女の運命戦争はいつの時代にも弱い者に苛酷であります。
姫塚古墳
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